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戦国紀年概説〔一〕:《史記・六國年表》

■戦国時代に関する史料

中国の戦国時代に関する資料は質的にも量的にも非常に乏しいものがあります。その主なものを列挙しても、

□先秦諸子の書:
『孟子』『荀子』『老子』『莊子』『列子』『文子』『商君書』『韓非子』『管子』『呂氏春秋』『公孫竜子』『孫子』『呉子』『司馬法』『尉繚子』他
□(古本)『竹書紀年』(※後述)
□『戦国策』
□『世本』
□『史記』:
周本紀・秦本紀・秦始皇本紀・六国年表・呉太伯世家・斉太公世家・燕召公世家・晋世家楚世家・越王勾践世家・鄭世家・趙世家・魏世家・韓世家・田敬仲完世家・老子韓非列伝・司馬穣苴列伝・孫子呉起列伝・伍子胥列伝・商君列伝・蘇秦列伝・張儀列伝・樗里疾甘茂列伝・穰公列伝・白起王翦列伝・孟子荀卿列伝・孟嘗君列伝・平原君列伝・魏公子列伝・春申君列伝・范雎蔡沢列伝・楽毅列伝・廉頗藺相如列伝・田単列伝・魯仲連鄒陽列伝・屈原賈生列伝・呂不韋列伝・刺客列伝・李斯列伝・蒙恬列伝等。(※遊侠列伝や滑稽列伝、貨殖列伝、太史公自序といったその他の伝にも若干の関連記述あり。)
□各種出土資料:
雲夢睡虎地秦簡・雲夢龍崗秦簡・(四川省)青州秦牘・長沙子弾庫楚緒早E包山楚簡・望山楚簡郭店楚簡・上海博楚簡・馬王堆漢墓簡帛・銀雀山漢簡等 (※その他、各種青銅器銘文や瓦当、瓦書など。)
□経書類:
(※経書の中にも、戦国時代に書かれたと考えられている篇が少なくない。)

といった程度を数えるに過ぎません。【注1】 しかもこの内、先秦諸子の書や『戦国策』などは各々に著作年代の問題を抱えていて(ものによっては前漢にまで下ってしまう篇もある)、資料として扱うのが非常に困難な場合が少なくありません。

更に上記の資料群は、既成の文献資料と新出の出土資料(文献+文書)とに大別することができますが、文献資料(特に先秦諸子や『戦国策』、経書類など)は年代に関する記述を含まないことが多く、その書物が扱っている時代よりも著作時期が後に下ってしまうことが間々あります。逆に出土資料は同時代(或いは近時代)資料であるという特質から、資料的な信頼性が高いと見なされ、年代を含む記述も間々見られるものの、前者がマクロ的な広い視野を持つのに比べて、極めて資料の対象がミクロ化してしまうという欠点があります。この両者の特質を兼ね備えているのが『史記』という文献です。『史記』はこうした多様な資料を参照しつつ、広い視野に立った整理も行き届いているという特長を持つことから、戦国時代の最もベーシックな資料として用いられてきました。

■戦国時代の事件の年代を知るには..

戦国時代の記事の年代を知るには、通常、『史記』を用います。…と言っても、ひとつの事件の年代を調べるのに、『史記』の中だけでも、少なくとも三、四箇所の候補が挙がります。

本紀 帝王の年代記。編年体。系譜を含むこともある。
世家 諸侯の年代記。基本的には編年体。やはり系譜を含むことがある。
帝王と諸侯の共観年表。記事は極めて簡素。
列伝 個人の伝記。説話資料の集積で年代を含まないことが多い。

このうち、戦国時代のような同時代に多数の国が並存している場合には、第三の「表」がその威力を発揮します。『史記』には全部で10個の表が収録されていますが、その中でも戦国時代を扱ったものが「六国年表」【りっこくねんぴょう】と呼ばれている部分です。(※このほかに「書」という制度史をまとめた諸篇もありますが、話を少しでも単純化するために暫く除外しておきます。)

■「六国年表」とは?

六国年表の特徴をまとめると概ね以下のようになります。

□ 年代範囲は、周の元王元年(前476)から、秦が滅亡する二世皇帝三年(前207)までの269年間。

□ 周・秦・魏・韓・趙・楚・燕・斉の八国の共観年表。六国年表の「六国」とは、上記魏以下の六国を指し、王室である周と、六国年表の原資料『秦記』の主格にあたる秦は別格扱いで「六国」には含まれない。

□ 表の縦軸が年代、横軸が諸侯の名。(略して「年経国緯」という。)

□ 斉の年表は、康公二十六年(前378)までが、太公望以来の姜氏が統治する斉(姜斉)で威王元年(前378)からは外来の豪族出身の田氏が統治する斉(田斉)の年代になっている。

□ 始皇二十七年(前220)以降は、統一秦のみの年表になる。

この共観年表は、列伝に出てくる記事の細かい年代や他国との関係を知るのに、とても重宝します。(下表参照。便宜上、記事部分は横書きに書き換えました。)

孫子呉起/商君列傳 六國年表

■《史記・孫子呉起列傳》(*1)
後十三歳、魏與趙攻韓、韓告急於齊。齊使田忌將而往、直走大梁。魏將龐涓聞之、去韓而歸、齊軍既已過而西矣。孫子謂田忌曰、「彼三晉之兵素悍勇而輕齊、齊號爲怯、善戰者因其勢而利導之。兵法、百里而趣利者蹶上將、五十里而趣利者軍半至。使齊軍入魏地爲十萬竈、明日爲五萬竈、又明日爲三萬竈。」龐涓行三日、大喜、曰、「我固知齊軍怯、入吾地三日、士卒亡者過半矣。」乃弃其歩軍、與其輕鋭倍日并行逐之。孫子度其行、暮當至馬陵。馬陵道陝、而旁多阻隘、可伏兵、乃斫大樹白而書之曰「龐涓死于此樹之下」。於是令齊軍善射者萬弩、夾道而伏、期曰「暮見火舉而倶發」。龐涓果夜至斫木下、見白書、乃鑽火燭之。讀其書未畢、齊軍萬弩倶發、魏軍大亂相失。龐涓自知智窮兵敗、乃自剄、曰、「遂成豎子之名。」齊因乘勝盡破其軍、虜魏太子申以歸。

■《史記・商君列傳》(*2)
其明年、齊敗魏兵於馬陵、虜其太子申、殺將軍龐涓。其明年、衞鞅説孝公曰、「秦之與魏、譬若人之有腹心疾、非魏并秦、秦即并魏。何者。魏居領阨之西、都安邑、與秦界河而獨擅山東之利。利則西侵秦、病則東收地。今以君之賢聖、國頼以盛。而魏往年大破於齊、諸侯畔之、可因此時伐魏。魏不支秦、必東徙。東徙、秦據河山之固、東郷以制諸侯、此帝王之業也。」孝公以爲然、使衞鞅將而伐魏。魏使公子卬將而撃之。軍既相距、衞鞅遺魏將公子卬書曰、「吾始與公子驩、今倶爲兩國將、不忍相攻、可與公子面相見、盟、樂飲而罷兵、以安秦魏。」魏公子卬以爲然。會盟已、飲、而衞鞅伏甲士而襲虜魏公子卬、因攻其軍、盡破之以歸秦。魏惠王兵數破於齊秦、國内空、日以削、恐、乃使使割河西之地獻於秦以和。而魏遂去安邑、徙都大梁。梁惠王曰、「寡人恨不用公叔座之言也。」衞鞅既破魏還、秦封之於衞商十五邑、號爲商君。

  29  

28
封大良造商鞅。 22 馬生人。

21
秦商君伐我、
虜我公子卬。
(→ *2)
31 齊虜我太子申、
殺將軍龐涓。
(→ *1)


30
  19  

18
  10  

9
  30  

29
  22  

21
與趙會、伐魏。 3 敗魏馬陵。田忌
・田嬰・田朌將、
孫子爲師。
(→ *1)


2

例えば《商君列伝》にみえる秦の名臣・商鞅が魏の公子卬【こうしこう】を欺いて魏軍を破った戦役も、六国年表を見れば、それが秦の孝公二十二年、魏の恵王三十一年(前340)に当たることが解ります。更にこの前年の恵王三十年(前341)を見ると、斉の将軍・田忌【でんき】とその軍師・孫臏【そんぴん】が魏の将軍・龐涓【ほうけん】に大勝した「馬陵の戦い」が見えます。つまり、これによって商鞅の出兵が前年の魏の大敗による損失と疲弊に乗じたものであることが、背景としてより立体的に像を結ぶようになる訳です。

このように六国年表は列伝の主観的記事からは得られない、客観的で多角的な情報を我々に与えてくれます。その情報は量において列伝に遠く及ばないものの、質と視野の広さにおいて、明らかに列伝を凌駕しています。

ところが、この六国年表には実は細かい年代の乱れや誤りが多く、その信頼性については、かなり昔から疑問が指摘されてきました。それは上の二つの戦役についても言えることですが、次回はその乱れが具体的にどういうもので、何が原因で起こったものなのかについて見ていきます。

【注1】 楊寛『戰國史』(台湾商務印書館/上海人民出版社、1997増訂版)
藤田勝久『史記戰國史料の研究』(東京大學出版會)
吉本道雅『史記を探る』(東方選書)
初版:2000,3,30
改訂2版:2002,9,17
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